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浅野幸長 あさの よしなが (1576~1613) 浅野家
 浅野長政の長男。武断派七将のひとり。小田原征伐で初陣を飾り、文禄慶長の役にも参加した。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、池田輝政らと共に岐阜城攻めで活躍。本戦では南宮山の毛利秀元長束正家の備えとなり、戦後、紀伊和歌山37万石の大名となった。その後は加藤清正らと共に豊臣家のために尽力し、1611年に徳川家康豊臣秀頼の会見を実現させるが、1613年に38歳の若さで病死した。死後、生前に結ばれた娘・春姫と尾張徳川家当主・徳川義直との婚約が履行され浅野家は徳川家と縁戚となり、浅野家が明治維新まで存続するきっかけとなった。


浅野長晟 あさの ながあきら (1586~1632) 浅野
 浅野長政の次男。若い頃から豊臣秀吉に仕え、3千石を領した。兄・幸長が1613年に若くして亡くなると遺領を受け継ぎ紀伊和歌山藩主となる。その後、大坂冬の陣夏の陣に参加し、夏の陣では塙団右衛門(直之)を討ち取った(樫井の戦い)。1619年に福島正則が改易されると、安芸広島藩に転封となり42万石の藩主となった。


上田重安 うえだ しげやす (1563~1650) 浅野家
 千利休古田織部に師事した茶人武将で造園家。宗箇の号で知られ、武家茶道・上田宗箇流を開いた。はじめは丹羽長秀、長重親子に仕え、長重が減封となると豊臣秀吉の直臣となった。関ヶ原の戦いでは西軍に属したため改易されたが、1602年に徳川家康の許しを得て浅野幸長に仕えた。浅野家には茶人として招かれたが、大坂の陣では大坂方の大将のひとり・塙団右衛門を討ち取るなど武人としても活躍した。


池田輝政 いけだ てるまさ (1564~1613) 池田家
 池田恒興の次男。武断派七将のひとり。小牧・長久手の戦いで、父と兄が討死したため家督を継いだ。秀吉が天下を統一するまでの主な戦にはほとんど参戦して武功を挙げ、小田原征伐、奥州仕置後に東三河15万石を拝領して吉田城主となる。1594年には徳川家康の娘・督姫を娶り徳川家と縁戚になった。関ヶ原の戦いでは東軍に属して岐阜城攻めで活躍し、本戦では南宮山の麓に布陣して毛利勢の抑えとなった。戦後は播磨姫路52万石を拝領し、姫路城を現在見られる大城郭に改修して権威を見せるとともに、徳川家の縁戚として西国の監視役を担った。徳川家との縁組はその後も大きく影響し、最終的に池田家は一族あわせて92万石を得るまでになった。亡くなる直前の1612年には松平姓も許され、「姫路宰相」「姫路将軍」と呼ばれた。


生駒親正 いこま ちかまさ (1535~1603) 生駒家
 織田信長の長男・信忠の生母・吉乃の一族。豊臣政権下の三中老のひとり。美濃国の生まれで信長の美濃攻めをきっかけに織田家臣となり、羽柴秀吉につけられ各地を転戦した。信長死後、正式に秀吉の家臣となって山崎の戦い賤ヶ岳の戦い小田原征伐文禄の役などで活躍し、讃岐国17万石を得る。関ヶ原の戦いでは西軍につくが、子の一正が東軍に属したため許され、所領は安堵された。


蒲生氏郷 がもう うじさと (1556~1595) 蒲生家
 六角家の重臣・蒲生賢秀の嫡男。戦では常に先陣をきる勇将でありながら、利休七哲のひとりにも数えられた風流人としても知られる。六角家が滅び、父が織田家臣となると、人質として信長のもとに送られ、優れた器量が見込まれると信長の娘・冬姫を娶って一門に列せられた。14歳で初陣を果たして以来、各地を転戦して武功を挙げ、本能寺の変では安土城にいた信長の一族をかくまった。豊臣秀吉のもとでも重用され、小牧長久手の戦い後に伊勢松ヶ島12万石、奥州仕置後は油断ならない伊達政宗の抑えとして、会津42万石、のちに加増されて91万石を与えられた。次期天下人と目されるほどの将器の持ち主であったが、40歳の若さで亡くなった。豊臣秀吉が家臣に「百万の軍勢を与えたら誰が一番強いか」と質問したとき、徳川家康前田利家の名が多くあがるなかで、秀吉は氏郷の名をあげたという逸話がある。

<辞世の句>
限りあれば 吹かねど花は 散るものの 心短き 春の山風



桑山重晴 くわやま しげはる (1524~1606) 桑山家

 尾張国出身。初めは丹羽長秀の与力だったが、羽柴(豊臣)秀吉に気に入られて羽柴家臣となり、賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政から本陣を守り切る活躍した。紀州征伐後、秀吉の弟・秀長の家老に抜擢され、和歌山城代となる。秀長、秀保が亡くなり、秀長家が断絶すると、秀吉に仕えて最終的には和泉国日根郡谷川に4万石を得た。関ヶ原の戦いでは東軍について所領を安堵され子らに領地を分知した。千利休に師事した茶人としても名を馳せた。


小堀遠州 こぼり えんしゅう (1579~1647) 小堀家
 茶人武将として知られる。諱は政一。父・政次が豊臣秀長秀吉の弟)の家老をつとめていたため、秀長の小姓として仕え始めた。1591年に秀長が亡くなり、95年に跡を継いだ秀保も亡くなると秀吉の直臣となり、この頃に古田織部に師事して茶道を学んだといわれる。秀吉死後は父と共に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後に父は備中松山城を拝領、父が亡くなると遺領を継いだ。1608年には駿府城の普請奉行をつとめ、その後は近江小室藩主となり、伏見奉行もつとめた。茶道、作庭、建築と多方面で活躍し、現在も各地に遠州作といわれる名勝がある。


仙石権兵衛 せんごく ごんべえ (1551~1614) 仙石家
 美濃国人の出身。諱は秀久。最初は斎藤家に仕えたが、織田信長によって斎藤家が滅ぼされると信長に降り秀吉の家臣となった。秀吉のもとで各地を転戦、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いの時には淡路の平定と長宗我部元親の抑えとして活躍し、淡路洲本5万石を拝領した。四国征伐後には讃岐高松10万石を得るが、軍監として参加した戸次川の戦いで、島津家久を相手に長宗我部信親十河存保らを討死させながら逃げ帰るという大敗を喫し改易された。しかし、徳川家康の仲介で従軍した小田原征伐で、秀吉の目にもとまる活躍をし、信濃小諸5万石の大名に復帰する。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍勢に加わり真田昌幸幸村親子と戦った。戦後も秀忠の信頼厚く幕府から厚遇を得た。


田中吉政 たなか よしまさ (1548~1609) 田中家
 浅井家臣・宮部継潤の家臣を経て、豊臣秀次の宿老となった。関白秀次事件では、よく讒言をしていたとして咎めはなく、三河岡崎10万石を得た。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、本戦に参加しただけでなく、佐和山城攻めにも参加し、伊吹山に潜伏していた石田三成を捕らえた。戦後、筑後柳川に32万石を得る。移封される先々で優れた内政手腕をみせ、近江八幡、岡崎、柳川には、吉政の都市計画の業績が現在も残っている。


寺沢広高 てらさわ ひろたか (1563~1633) 寺沢家
 豊臣秀吉と同じ尾張中村の出身という。朝鮮出兵の際、奉行として肥前名護屋城の普請や兵力輸送、補給で活躍し、肥前国内に8万石を得た。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、戦後、飛び地ながらも天草4万石を加増されて12万石となり、唐津城を築いて初代唐津藩主となる。その後、大坂冬の陣にも徳川方として参加した。質素倹約に務め、善政を敷いたが、1614年に禁教令が出ると、キリシタンを執拗に弾圧したため、それが島原の乱が起こる一因となった。親友・安田作兵衛とどちらかが出世したら石高の十分の一で召し抱えようと約束し、8万石の大名になった時、約束通り8千石で作兵衛を迎えた美談がある。


藤堂高虎 とうどう たかとら (1556~1630) 藤堂家
 近江国出身。文武に秀でた名将で、加藤清正と並ぶ築城の名手としても知られる。初めは浅井長政に仕えたが、浅井家が滅亡した後は阿閉貞征磯野員昌、織田信澄と次々に主君を変え、豊臣秀吉の弟・秀長に仕えてようやく安定した。秀長のもとで順調に出世し、2万石を領するほどになるが、秀長、秀保(秀長娘婿)が相次いで亡くなり、家が断絶すると剃髪して高野山に登った。しかし、高虎の才覚を高く評価していた秀吉にすぐに召し出されて伊予宇和島7万石の大名として復帰する。秀吉の死後は徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは大谷吉継と激戦を繰り広げ、戦後に伊予半国20万石を得た。1608年、筒井定次が改易となると、定次の領地であった伊賀一国と伊勢の一部、あわせて22万石の加増転封を受ける。その後、大坂の陣にも参陣して武功を挙げ、最終的に32万石を領するに至った。外様でありながら家康の信頼厚く、譜代並みの厚遇を得た。


渡辺勘兵衛 わたなべ かんべえ (1562~1640) 藤堂家
 近江国出身。諱は了(さとる)。織田信長から直接賞賛されるほどの槍の使い手で「槍の勘兵衛」の異名をとった。阿閉貞行豊臣秀吉、秀吉の養子・(於次)秀勝、中村一氏増田長盛に仕えたが、長盛が関ヶ原の戦いで西軍につき敗北すると、藤堂高虎に力量を買われ2万石で仕えることになった。藤堂時代には今治城の普請など槍働き以外でも才能を見せたが、大坂冬の陣夏の陣で戦術をめぐって高虎と衝突し、独断専行で戦闘を行い、勝利したものの甚大な被害を出して出奔するはめになった。その後、高虎が奉公構を出したため他家の仕官は叶わなかったが、細川忠興徳川義直から捨扶持を受けていたため多くの門人を集めた。


富田信高 とみた のぶたか (?~1633) 富田家
 近江国出身。一白の子。父・一白が豊臣秀吉の側近であったため秀吉に仕えた。1598年、父の隠居により伊勢安濃津6万石を継いだ。関ヶ原の戦いでは東軍につき、上杉討伐に参加。石田三成が挙兵すると安濃津に戻り毛利秀元ら3万の西軍相手に籠城したが、激戦の末に降伏し高野山に奔った。戦後、戦功が認められ2万石の加増を受けた。1608年、伊予国宇和郡板島に10万石で移封となるが、13年に大久保長安事件に連座して改易された(諸説あり)。


中村一氏 なかむら かずうじ (1554~1600) 中村家
 豊臣政権下の三中老のひとり。早くから木下(羽柴)秀吉に仕え、山崎の戦い賤ヶ岳の戦いなどで活躍して和泉岸和田3万石を拝領した。小牧長久手の戦いの時には雑賀、根来ら紀州一揆勢の抑えとして残され、岸和田城を死守した。小田原征伐でも山中城攻めなどで功があり、徳川家康の関東移封後に駿河府中14万石を拝領して家康の抑えとなった。関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、決戦直前に病没した。


古田織部 ふるた おりべ (1544~1615) 古田家
 美濃国出身。諱は重然。有名な焼物「織部焼」の創始者として知られる。織田信長の美濃侵攻あたりから使番として信長に仕え、信長の死後は豊臣秀吉に仕えた。多くの戦に参加した武将だが、茶人として有名で、千利休の7人の高弟「利休七哲」のひとりに数えられ、織部焼に見られる独特な作風や演出から「へうげもの(ひょうきんもの)」と呼ばれた。利休の死後は秀吉の茶頭筆頭となり佐竹義宣など多くの大名を弟子としている。関ヶ原の戦いでは東軍について茶頭筆頭の立場も据え置かれたが、大坂の陣で豊臣家との内通の嫌疑をかけられ切腹させられた。家康暗殺の陰謀に関わったといわれる。


蜂須賀家政 はちすか いえまさ (1558~1639) 蜂須賀家
 阿波の戦国大名。徳島藩祖。蜂須賀小六(正勝)の嫡男。父と共に羽柴(豊臣)秀吉に従い、中国攻めの頃から活躍し始めた。本能寺の変後も秀吉に従い、山崎の戦い賤ヶ岳の戦いに参加し戦功があった。四国征伐後、秀吉は父・小六に阿波18万石を与えようとしたが、小六が側近として秀吉の側にいることを望んだため、代わりに阿波を与えられた。その後、九州征伐小田原征伐文禄慶長の役にも参加し戦功があった。関ヶ原の戦いでは大坂にいたが、子・至鎮を東軍に送り込んでいたため、所領安堵を得た。大坂の陣でも子・至鎮の武功で淡路が加増され、蜂須賀家は25万石の大封となった。


蜂須賀至鎮 はちすか よししげ (1586~1620) 蜂須賀家
 家政の嫡男。初代徳島藩主。若い頃は父と共に豊臣秀吉に仕えた。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは徳川家康の養女(小笠原秀政の娘)を娶って東軍に属し、大坂に残った父に代わり本戦に参加した。戦後、その功により所領を安堵されると共に父が隠居したため初代徳島藩主となる。その後は大坂の陣にも参加。その戦功で淡路を加増されて25万石の大名となる。名君と知られ、藩の発展に多大な功績を残したが、父に先立ち病没した。


細川忠興 ほそかわ ただおき (1563~1645) 細川家
 細川藤孝の嫡男。武断派七将、利休七哲のひとりで三斎の号でも知られる。正室は明智光秀の娘・玉子(細川ガラシャ)本能寺の変後、父・藤孝が岳父・明智光秀の誘いを断わり隠居したため、家督を継いで南丹後を領有した。羽柴秀吉と誼を通じて、北丹後も制圧して丹後を平定したのちは、秀吉に従って小牧・長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐に従軍し、文禄の役(朝鮮出兵)にも参加した。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、石田三成の人質になることを拒んで亡くなった正室・ガラシャの仇討ちもあって三成本隊と激戦を繰り広げ、戦後に豊後国中津39万9千石を得た。1615年には大坂夏の陣にも参戦している。1620年に病のために隠居するが、生存中に跡を継いだ忠利は加増転封され、細川家は肥後国熊本54万石を領するまでになった。


堀尾吉晴 ほりお よしはる (1543~1611) 堀尾家
 豊臣政権下の三中老のひとり。情に厚く温厚な性格だったことから「仏の茂助」と呼ばれた。尾張の土豪出身ではじめは岩倉織田家に仕えたが、岩倉織田家が織田信長によって滅ぼされると、信長に臣従して木下(羽柴)秀吉の家臣となる。その後、秀吉の主な戦にはほとんど参加し、特に山崎の戦いや小田原征伐で活躍して遠江浜松12万石の大名になった。関ヶ原の戦いでは東軍につくが、前年に隠居していたのと家康の命によって、子の忠氏のみが従軍した。戦後、忠氏の功もあって堀尾家は出雲富田24万石を得る。1604年に忠氏に先立たれると、まだ幼い孫・忠晴を後見し、松江築城の指揮をとった。


堀尾忠氏 ほりお ただうじ (1578~1604) 堀尾家
 堀尾吉晴の子。1599年に父・吉晴が隠居したため、遠江浜松12万石を継いだ。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、父に代わって従軍。本戦では長宗我部盛親の抑えのみで活躍の場がなかったが、前哨戦での活躍で戦後に出雲富田24万石を得た。移封後、城下を発展させるため、松江城の築城を計画するが、築城に取り掛かることなく急死した。


堀尾忠晴 ほりお ただはる (1599~1633) 堀尾家
 堀尾忠氏の子。出雲松江2代藩主。父の急死により家督を継ぐが、まだ幼かったため、祖父・吉晴の後見を受けた。父の遺志を継ぐ形で松江城を築城(実際指揮をとったのは吉晴)し、吉晴死後に、初めて自ら藩政を行った。1633年に亡くなるが、子がいなかったため、大名としての堀尾家は断絶した。


堀秀治 ほり ひではる (1576~1606) 堀家
 秀政の子。1590年、父・秀政と共に小田原征伐に参加するが、秀政が陣中で病没したため家督を継いだ。父の代から家老として活躍していた堀直政の補佐もあり、1598年に上杉景勝が会津へ転封となると、越前北ノ庄18万石から越後春日山30万石の大名となる。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、かつて上杉家に仕えていた者たちによる一揆(上杉遺民一揆)を鎮圧して所領を安堵された。


堀直政 ほり なおまさ (1547~1608) 堀家
 堀家の筆頭家老。旧姓は奥田。織田信長の側近で「名人久太郎」の異名をもつ堀秀政の従弟にあたる。秀政とほぼ同時期に信長に仕え始め、秀政が出世すると、その補佐にあたった。本能寺の変後も秀政と共に豊臣秀吉に仕え、秀吉の主だった戦いにはほとんど従軍し小田原征伐中に秀政が病没すると、秀政の子・秀治を続けて補佐した。関ヶ原の戦いでは、石田三成の虚偽の書状に騙されることなく、自ら得た情報で状況を正確に判断して秀治に東軍に味方することを主張。結果、堀家は所領安堵を勝ち得た。1606年、秀治が亡くなると秀治の子・忠俊を補佐するが、1608年に病没した。死後、長男・直清と三男・直寄が家督を巡って対立。事態はお家騒動に発展し、忠俊は改易となってしまった。


山内一豊 やまうち かずとよ (1546~1605) 山内家
 岩倉織田家の重臣・山内盛豊の子。正室は「内助の功」で知られる見性院(千代)。父が織田信長との戦いで討死(自害とも)したことで一家が離散し浪人する。数人の者に仕えたのち、仇敵である信長に従うことになり、木下(羽柴)秀吉の家臣となった。その後は各地を転戦、賤ヶ岳の戦いの前哨戦である伊勢亀山城攻めでは一番乗りの手柄を挙げるなど活躍し、小田原征伐後に遠江掛川5万石を拝領した。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、石田三成挙兵を受けて開かれた小山評定では、いち早く掛川城を徳川家に明け渡すことを表明して家康から感謝された。本戦では、はじめ南宮山の毛利勢の抑えとして後方に置かれたが、終盤は前線で活躍し、戦後に土佐一国20万石を与えらえた。


山内康豊 やまうち やすとよ (1549~1625) 山内家
 山内一豊の同母弟。父が織田信長との戦いで討死(自害とも)したことで一家が離散したため、しばらく浪々の生活を送っていたといわれる。織田信長の嫡男・信忠に仕え、本能寺の変後に兄・一豊の誘いを受けて補佐役となった。関ヶ原の戦い後、山内家が土佐一国20万石の大名になると土佐中村2万石を拝領した。一豊の死後、一豊の養嗣子となっていた長男・忠義が藩主となるが、若年であったため、後見をつとめた。


五藤吉兵衛 ごとう きちべえ (1553~1583) 山内家
 山内家臣。諱は為浄。父の代から山内家に仕えた。一豊のもとで各地を転戦し、刀根坂の戦いでは一豊の頬に刺さった矢を顔を踏みつけて抜いたという逸話が残る。賤ヶ岳の戦いの前哨戦である伊勢亀山城の戦いで、一豊の一番乗りを助けるために討死した。その後、弟である為重が重用され、五藤家は代々山内家の家老をつとめた。